東北大学 大学院理学研究科・理学部

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橋本治先生のご逝去を悼む

さる2月3日、本研究科 物理学専攻 橋本治先生が他界されました。葬儀は2月8日、多くの参列者のもとしめやかに行われました。



高エネルギー加速器研究機構 機構長 鈴木 厚人

謹んで橋本治先生にお別れの言葉を申し上げます。
いつものように橋本さんと呼ばせてください。
橋本さんの急逝の報に接し、今は二人三脚の紐がほどけてしまった感で一杯です。思えば、私が東北大に着任してすぐに、原子核物理学実験講座の教授人事があり、橋本さんのもとを訪ねて何とか東北大に来てくれませんかとお願いしたことが、今日の始まりでしたね・・・。
私が橋本さんに、往年の東北大学の原子核物理学実験と素粒子物理学実験の勢いを、二人で一緒に再現しませんかと尋ねたところ、後日、よい返事をいただき、安堵とともに責任も感じました。
あの当時、私たちは40代で、今思えば生意気な新米教授でしたね・・・。原子核、素粒子どころか、物理学教室をなんとかしようと、教室会議の後に二人で口から泡を飛ばして意見を出し合ったことが、つい先日のように思い出されます。
また、二人で協力して教員人事を進め、研究グループ形成を大事にし、お互いに研究に励みました。研究面では橋本さんはよきライバルでした。常に先を見据えて、少々のことでは動じない橋本さんから、いつも勇気をもらいました。ありがとうございました。
今では誰もが認める世界に誇れる原子核実験グループと素粒子実験グループが形成されたと思っています。私たち二人の初心が達せされたと自負しましょう。橋本さんの定年の時に、大いに乾杯しようと思っていたのですが、今はそれができません。残念でなりません。
橋本さんとの二人三脚は、研究面にとどまらず、もっと大きく展開したことは、当初は考えてもいませんでしたね・・・。私が理学研究科長の時には副研究科長、副学長の時には理学研究科長と。しかし、橋本さんが副学長の時には、私は東北大を離れてしまい、たいした協力もできませんでしたが、東北大学とKEKとの連携協定を結び、研究交流のさらなる推進を実現したことで、かろうじて二人三脚を保てたとしてください。それにしても、いつも助けてもらうばかりをお許しください。
今は、もはやこれまでのような二人三脚はできません。これから私は、また、橋本さんと初心を目指した頃に戻ります。そして、素粒子物理学、原子核物理学、人才育成、組織運営と、空に向かって橋本さんに問いかけます。当時と同様に、大いに議論しましょう。二人三脚を続けさせてください。
橋本さん、最後に、つくば並木住宅の頃から仙台在住の約20年間、子供たちが小学生のころから家族ぐるみの付き合いをさせていただき、ありがとうございました。充実した20年間でした。
今は"ほんとうにお疲れ様、どうぞ安らかにお休みください"。

理学研究科長 福村 裕史

東北大学理学研究科教授、東北大学副学長、橋本治先生のご逝去を悼み、東北大学理学研究科を代表し、謹んで哀悼の意を表したいと思います。
橋本治先生は、昭和22年10月31日のお生まれです。東京大学理学部を卒業された後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻の博士課程に進学され、昭和50年3月に修了して理学博士の学位を授与されております。その後、東京大学原子核研究所の助手、さらに昇任して助教授として勤務され、平成7年6月に教授として東北大学に赴任されました。その後およそ17年の間、東北大学理学研究科の研究と教育、運営に大きく貢献されました。
橋本治先生のご専門は、原子核物理学です。東大時代には、超伝導磁気スペクトロメータを高エネルギー物理学研究所の加速器施設に設置して、パイ中間子ビームを用いたハイパー核分光実験を行い成功させました。東北大学でもこの研究をさらに発展させ、様々なハイパー核の構造や崩壊機構を解明されました。その後、東北大を中心とする国際研究グループを組織し、米国ジェファーソン研究所に大型磁気スペクトロメータを建設して、電子ビームによる高分解能ハイパー核分光法を開拓し、史上最高の分解能を実現されました。これらの業績により、橋本治先生はハイパー核研究の世界的権威と認識されております。
このように橋本治先生の研究スタイルは、卓越した語学力と実行力に支えられた国際的な共同研究に基づくものであり、現在も日本学術振興会の国際戦略型先端研究拠点事業として「電子・光子ビームによるストレンジネス物理国際連携研究プラットフォームの構築」の課題をコーディネーターとして遂行していたところであります。本研究課題を続行するため、4月1日以降の役職をどうするか、事務部長と相談していた矢先、突然ご逝去のお報せに接しました。まだまだ研究を続けたいという強い意欲があったものと思います。理学研究科がご支援させて頂く機会を失したことは本当に残念でなりません。
橋本治先生は、大学の運営にも優れた手腕を発揮し多大な貢献をされました。平成17年度から19年度には理学研究科長、平成18年11月から平成21年9月には教育国際交流・大学院教育担当の副学長として活躍されました。国際交流会館長、国際交流センター長、経営協議会委員、総合技術部長などの要職も歴任されております。
橋本治先生が理学研究科長に就任された時、私は副研究科長職を仰せつかりました。丁度、大学評価が始まった頃で、仕事は厳しかったのですが、依頼されると嫌とは言えない独特の柔らかい雰囲気が、橋本治先生にはありました。時々発する頼りなさそうな言動も、実は計算づくで、他人を動かす巧みな技術では無かったかと思い起こす事もあります。親しみやすい見かけにもかかわらず、どんな局面にあっても正しい判断を示し、人を動かす優れた能力を持つ先生のような方に私は未だ会ったことがありません。さらに、研究科長室では度々、ワインの会を開いて我々若手の研究科補佐会メンバーと親睦を深めて下さいました。ご自宅に補佐会メンバーを大勢、招待して下さった事もあります。学識に富むのはもちろんのこと、好奇心が旺盛で、お酒と会話が大好きで、実行力と包容力もある、そういう素晴らしい方と、共に仕事をする機会を頂いたことは個人的にこの上ない幸運でした。これまで指導された学生の皆さん、お付き合いのあった教員の皆さんも同じように感謝しているものと思います。先生のご尽力によって、東北大学と理学研究科は多くの恩恵を受けております。本当にありがとうございました。
癌との闘病生活は辛かったことと思います。まだまだ続けたかった研究を諦めざるを得なかったことは無念であったと思います。しかし、本当に大切な先生を失ってなお生き続けなければならない我々もまた同様に辛いのです。この悲しみに耐え、先生の目指したさらにその先を目指し、残したものを大きく育てることで、我々はバランスを保ち続けることができるでしょう。どうぞ安らかにお眠り下さい。先生の親しみ深いお人柄を偲びつつ、ご冥福をお祈り申し上げます。

前理学研究科長 花輪 公雄

タフ・ネゴシエーター
-橋本治先生のご逝去を悼む-

橋本治先生が亡くなられた。ご定年ご退職まで2カ月を切ってのご逝去であった。なんとも残念なことである。追悼文の依頼があったので、私は本稿で、橋本先生の粘り強さという一点に絞って紹介したい。
物理学専攻所属の橋本先生は、実験的手法で原子核の物理を研究されていたので、専門が異なる私との接点は、研究科の運営を通してであった。それまでも教授会や委員会等でお会いはしていたのだが、本格的にご一緒させていただいたのは、現在高エネルギー加速器研究機構の機構長を務めておられる鈴木厚人先生が研究科長時代の2004年以降のことである。法人化初年度であるこの年、橋本先生が研究企画担当の副研究科長、私が教育企画担当の副研究科長として執行部に入った。翌年、橋本先生は鈴木先生に続いて研究科長を務められ、任期後半から2009年半ばまで、本学の国際交流担当の副学長にも就任された。
さて、理学研究科で執行部の会合を定期的に開催することを導入したのは、橋本先生であった。以降現在も、「補佐会」と「昼食会」を毎週交互に開催している。補佐会は、研究科長、3副研究科長、3研究科長補佐、評議員、総長補佐、事務部から部長・課長・課長補佐の3名が加わる。年度によっても異なるが、総勢12~13名程度である。昼食会は教員のみの参加で、昼食を取りながら意見交換をする場である。
どちらの場も研究科長が、この間に起こったいろんな出来事を報告したり、懸案事項を相談したりする。私はこの会合での橋本先生の議論の仕方に驚くとともに、大変感心させられた。それは、一つの案件に対して、多様な見方を率先して導入し、この見方ではこうであるが、あの見方ではああであり、こうするとああなるが、ああするとこうなる、などと思考実験を粘り強く続けることである。たとえ多くの方が最終判断に同意しているときにも、わざと刺激や摂動、あるいは擾乱を与えて思考実験を繰り返すのが常であった。
自然科学の大抵の学問分野の研究手法には、理論的な研究、数値モデルや装置を使った実験的な研究、天文学や地球物理学では観察・観測資料に対する解析的な研究、と三つの手法が存在している。研究者個々人は、これらの手法をすべて駆使している訳ではなく、自分が得意とする手法を採用する。
私は、会議などの場で様々な方の意見を聞いていると、やはりその人が採用している研究手法によって、思考の仕方、問題解決へのアプローチの仕方が異なるとの印象を持っていた。すなわち、実験屋は、直観力に優れており、大胆かつ斬新なアイデアを次々と出す。そして決断も早いが、いっぽうで諦めも早く、論理の蛇行などはあまり気にならない。このタイプの典型的な方は、そうS先生ですね。理論屋は、ある仮説のもとに思考実験をすぐやりたがる。筋が通っていることこそが価値があるので、筋を通すことを最優先させる。このタイプの典型的な先生は、そうK先生ですね。資料解析屋は、どうしてそうなったのか、現状はどうなのかをすぐ観察・分析したがる。現状のあるがままを詳細に観察し、その理由をひねりだす。そして、その延長上に将来を考える。このタイプの典型的な先生は、そうO先生ですね。
この見方、橋本先生の補佐会の運営手法に出会うまでは、なかなか当たっていると自画自賛していた。ところが、橋本先生は上記の実験屋とはまったく違っていたのである。「決断も早いが、いっぽうで諦めも早く、論理の蛇行などはあまり気にならない」は、まったく当てはまらい。橋本先生時代の補佐会では、一つの話題が何週にもわたって議論されることが実に多かった。さまざまな観点から検討したうえで結論を出すことで、橋本先生は反対の先生を説得し、合意形成を図ったのである。中には、根負けした先生もおられたかもしれない。
橋本先生の研究チームは、先生が本学に移ってから先生が一から作られ、国内や国外の共同研究チームも、先生の粘り強い交渉があればこそできたとお聞きしている。すなわち、橋本先生は、まさにタフ・ネゴシエーター(手強い交渉人)であったのである。
もし、病魔が橋本先生に忍びよらなければ、国際交流担当副学長として大いに活躍され、本学の国際交流の歩みも違ったものになっていただろう。理学研究科はもちろん、本学が橋本先生を失ったことは、グローバル化の時代にあって、本当に残念なことである。橋本先生、安らかにお休みください。合掌。

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