東北大学 大学院理学研究科・理学部

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生命エネルギーの通貨ATP 〜ATPのエネルギー放出の分子メカニズム〜

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図1. 水中のATP(adenosine triphosphate)分子(注1)の量子/古典ハイブリッドシミュレーションのスナップショット。青と黄色の面は、それぞれ、ATPの電子密度の平均電子密度からの差の当値面 (=±3.0☓10-4 a.u.) を表す。ATPの周囲に存在するのは古典モデルで記述された水分子。


概要

ATP分子は生体におけるエネルギーの通貨であり、このエネルギーが我々の生命としての活動に不可欠です。しかし、そのエネルギー放出の微視的なメカニズムは、これまで不明なままでした。我々は、量子力学(注2)と統計力学(注3)に基づく分子シミュレーション(注4)によって、その謎を明らかにしました。(図1)



研究の背景

私達の体は何故、動くのでしょうか?体の動きには、手を挙げたり歩いたりなどの動作の他に、心臓の鼓動のような無意識の運動もあります。これらの運動には、すべて筋肉の働きが関わっています。また、我々の細胞の中を覗いてみると、そこには酵素とよばれる無数のタンパク質があり、それらがイオンを運んだり、分子を分解、合成したりと常に活動しています。筋肉もつぶさに見るとタンパク質の集合体ですから、私達の生命としてのあらゆる営みは、タンパク質の微視的な動きに還元されます。では、このようなタンパク質の活動のエネルギー源は何でしょうか?私達は、食事で摂り入れたものがエネルギーになることは知っていますが、食べたものがそのまま動力源になるわけではありません。実は、食物から得た脂肪や糖などのエネルギーは、最終的にATPとよばれる分子のエネルギーに変換されます。我々の日常生活でいうと、商品がお金に変換される(あるいはその逆)のと似ています。地球上のあらゆる動植物の生命活動において、ATPという分子が、まさにエネルギーの通貨として普遍的に使われているのは面白いことです。

上でATPのエネルギーという言葉を使いましたが、これは一体、どういう意味でしょうか。図2の左はATP分子の模式図です。この分子が、水1分子と反応して、図2の右上のようにADPとPi(無機リン酸)に分解(加水分解)するときにエネルギーを放出します。これが、ATPのエネルギーとよんでいるものの正体です。このエネルギーの値は、ATPやADPの濃度にもよりますが、-10 kcal/molぐらいです。ATPの1 モル当たりの重さが約500 gですから、仮にATPを500グラム摂取したとすると、やっと10 kcal分の活動が可能になるわけです。人間は、一日に自身の体重と同じくらいの重さのATPを合成し、これを消費することによって活動しています[1]。しかし、水分子が関わっているとはいえ、図1のように化学結合が切れるのに、エネルギーが放出されるとは、どういうことでしょうか?これまでの生物学の教科書には、そのエネルギー放出のメカニズムについていくつかの推測が書かれていますが、まだ本当のことは分かっていないのです。我々は、量子力学と統計力学に基づくコンピュータシミュレーションによって、ATPのエネルギー放出の微視的なメカニズムを明らかにしようと考えました。



研究の成果

ATPの加水分解というとATP分子のみを考えがちですが、ATPは周囲の水溶液のpH(注5)に応じて脱プロトン化することにより、0価から-4価までの電荷を持ちます。従って、その加水分解においては、水とATPとの相互作用も考える必要があります。また、上の記述では、単にATPのエネルギーと書きましたが、正確には自由エネルギーと表現しなければなりません。加水分解に伴う自由エネルギー変化∆Gはエネルギーの他に、多数の溶媒の水分子がその配置を乱雑にしようとする傾向、すなわちエントロピーの効果も含んでいます。自由エネルギーを考慮する為に、統計力学をベースとする溶液論を使いました。さらに、ATPの自由エネルギー放出は化学結合の切断を伴いますので、原子・分子を構成する電子の状態を考慮する必要もあります。電子は量子力学に従う代表的な粒子ですので、密度汎関数理論(注6)という量子化学の方法を用いました。また、溶媒としての多数の水分子の振る舞いを記述するために、古典分子シミュレーション(注7)の方法を用いました。つまり、溶質であるATPは量子化学の方法で扱い、その周囲の溶媒水を古典力学のモデルで扱うハイブリッド法を用いました。図1はそのシミュレーションのスナップショットです。

コンピュータを用いる計算においても、色々、工夫をしています。自由エネルギー計算においては、溶媒水のたくさんの配置をシミュレーションによって生成する必要がありますが、これには大きな計算時間が必要となります。計算を高速化する為に、数百台のコンピュータをネットワークで繋いで、並列分散処理(注8)する為のプログラムを新規に開発しました。プログラム開発や、計算が正常に行われるかどうかを確認する為のテストを研究室の比較的小規模の計算機クラスターで実行し、自由エネルギーを計算する為の本番のシミュレーションを、東北大学の自室の端末から京都大学や東北大学のスパコン[2]を遠隔で操作することにより実行しました。ATPの末端の2つのリン酸基のみからなる分子(ピロリン酸: PPi)について、その0価から-4価までの5つの脱プロトン化状態、ATPについては-3価と-4価の2つの状態のシミュレーションを完了するのに半年以上の時間がかかりました。計算が終わって、見通しの良い結論を得たのですが、シミュレーションの設定を見直しているときに、溶質と溶媒間の相互作用の計算に軽微なミスが見つかり、シミュレーションのほぼ全てをやり直すことになりました。ミスを見つけた時は、意気消沈しましたが、幸い、修正して計算をやり直しても結果は大きくは変わりませんでした。

次に、どのような結果が得られたかを説明します。図3に結果を表すグラフを示します。イオンの価数が-4のATPやピロリン酸を例にとって考えましょう。3つのリン酸基に-4の負電荷が存在する電子状態は電子間のクーロン反発により極めて不安定です。これが、-1価のPiと-3価のPPiに分解すると、この反発が軽減されて大きく安定化します。しかし、この安定化の自由エネルギー∆Geleは、-10 kcal/molどころではなく、ピロリン酸でおよそ -300 kcal/mol, ATPで -170 kcal/molほどもあります。-10 kcal/molという程良い大きさになる為には、加水分解に伴って不安定化する要因が他にある筈です。これが、実は溶媒水と関係しているのです。古典電磁気学によって分かることですが、水のような誘電体の中に置かれた負電荷は、それが空間の狭い領域にある時には誘電体との相互作用が安定化し、広がると不安定化します。したがって、−4価の電荷を持つ溶質が、分解によって-1価と-3価に別れると不安定化するのです。この水和(注9)に起因する自由エネルギーの不安定化∆Gsolが先の∆Geleの寄与と絶妙に相殺することにより、加水分解自由エネルギー∆Gが -10 kcal/molとなります。しかも、非常に面白いことに、ATPやピロリン酸の総電荷を様々に変えても、放出される自由エネルギーは-10 kcal/molで一定に保たれることが明らかになりました。このような一定値性は自明なことでは無く、溶媒を水の代わりにエタノールにすると一定値性は壊れてしまいます。細胞質のpHの揺動に対して加水分解自由エネルギーが一定であるように、自然がATPを生体のエネルギー通貨として選んだのかも知れません。



発表雑誌

この研究は、東北大学理学研究科の高橋 英明 准教授、森田 明弘 教授、同工学研究科鈴木 誠 教授らの研究グループと、大阪大学基礎工学研究科の松林伸幸 教授の研究グループとの共同により行われました。研究成果は、2017年2月21日にアメリカ化学会の学術雑誌である、『Journal of Physical Chemistry B』の121巻に掲載されました。

Hideaki Takahashi et al. "Drastic Compensation of Electronic and Solvation Effects on ATP Hydrolysis Revealed through Large-Scale QM/MM Simulations Combined with a Theory of Solutions", J. Phys. Chem. B, 2017, 121, 2279-2287.



参考図

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図2. (左)ATP分子の模式図。3つのリン酸とリボース、アデニンからなる。(右上) ATPの加水分解反応。ADPは、adenosine-diphosphateを表す。(右下)ピロリン酸の加水分解反応。ピロリン酸の反応は、ATPの反応のモデルと見なせる。


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図3. イオンの価数に対するATPおよびピロリン酸(PPi)の加水分解自由エネルギー∆Gとその分解項∆Geleと∆Gsol の変化。∆G = ∆Gele + ∆Gsolであり、2つの自由エネルギーの寄与が相殺することにより∆Gの一定値性が維持される。



用語解説

(注1)ATP (adenosine triphosphate)
アデノシンと3つのリン酸からなる分子。地球上のあらゆる生体内に普遍的に存在し、生命活動に必要なエネルギーを貯蔵、媒介、放出する。

(注2)量子力学
電子などの極微の粒子の運動を記述する力学であり、その基礎方程式はシュレーディンガー方程式として知られています。また、この力学をベースとして、化学反応などの化学の現象を記述する目的の為に構築された近似体系を量子化学とよんでいます。

(注3)統計力学
多数の粒子の集団が示す巨視的な熱力学的性質、すなわちエネルギーや温度、圧力などの物理量を、それを構成する原子や分子の固有の微視的性質から構築する為の理論体系。

(注4)分子シミュレーション
多数の原子や分子からなる集団の微視的な振る舞いをコンピュータ上で再現する方法。

(注5)pH
プロトンH+の濃度を表す指数であり、濃度の逆数の常用対数を取ったもの。

(注6)密度汎関数理論
量子的な粒子である電子間の相互作用エネルギーを電子の空間的な分布関数(電子密度)によって記述する為の理論、およびそれを基盤とする近似体系。

(注7)古典分子シミュレーション
分子間の相互作用は本来、量子力学の方法によって計算されるが、計算コストが高いために、これを経験的な解析関数で近似的に記述するコンピュータシミュレーションの手法。

(注8)並列分散処理
コンピュータシミュレーションは膨大な数の数値演算の繰り返しによって実現されます。これらの計算を何台もの計算機に分担して実行させることにより、計算を高速化することができます。各々の計算機は独立ではなく、互いに情報をやり取りしながら計算を実行していきます。

(注9)水和
水溶液において、水分子が溶質を取り囲んで主に静電的な相互作用によって安定化すること。



参考文献

[1] 二井將光、生命を支えるATPエネルギー ~メカニズムから医療への応用まで~、講談社ブルーバックス, 2017

[2] ・京都大学情報環境機構
  ・東北大学サイバーサイエンスセンター



問い合わせ先


東北大学大学院理学研究科化学専攻
准教授 高橋英明(たかはしひであき)
E-mail:hideaki.takahashi.c4[at]tohoku.ac.jp
*[at]を@に置き換えてください



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