大気汚染は今も世界各地で広がり、EUや日本の隣国、中国でも多くの人々に深刻な健康被害を引き起こしていることから、日本にとっても無縁な問題ではありません。WHO(世界保健機関)の統計によると、大気汚染が激しい世界の都市の多くはインドにありますが、新型コロナウイルス感染症防止のための拡大ロックダウンが2020年3月25日に始まった後、インドでは大気汚染が静まり、きれいな青い空が戻ってきたことが多数報告されました。大気汚染物質のひとつに窒素酸化物がありますが、このたび、国内外の地球環境問題に取り組む総合地球環境学研究所(地球研)を中心とした研究グループは、衛星データと数学的モデリングを使用した新しい手法で、世界でも有数の大気汚染の過酷な都市であるインドの首都、デリー周辺で、ロックダウン後の都市部と近郊農村部の窒素酸化物の濃度から、排出量の変化を推定し、その72%は交通と工場から排出される人為的活動由来であることを明らかにしました。また、農村部では、おそらくロックダウン解消後の藁焼き再開により、ただちに濃度が増えていることも突き止めました。研究チームは、今回開発された方法を用いることで、今後、藁焼きシーズンが来たときに、周辺の農村における藁焼きがデリーの大気汚染に与える影響を定量的に評価できる、としています。その結果は今後の大気汚染に関わる政策決定に影響が及ぼされる可能性があるでしょう。
本成果は、地球研プロジェクトAakash(ヒンディー語で「空」)の一環である「ミッションデリー(大気汚染物質の排出変化の検出:ヒューマンインパクト研究)」という研究として行われ※1、2021年5月7日付の「Scientific Report」誌にオンライン掲載されました。
COVID-19は想像をはるかに超えて世界を変えました。思いもよらなかったポジティブな側面として、記録的な速さで新しいワクチンが開発されたことがあります。異常ともいえるロックダウンは、人の移動の抑制や消費活動に深刻な影響を与えました。中国、ヨーロッパ、インドなどでは、大気汚染のレベルが大幅に低下していることが明らかにされましたが、それは皮肉なことに健康には有益な影響を及ぼしました。ただし、そうした大気汚染物質濃度の低下において、人為的な活動が及ぼす影響を完全に理解するには、風の流れなど大気中の自然現象による影響と分けなければなりません。
そうした中、総合地球環境学研究所(地球研)の研究者らは、衛星データと数学的モデリングを使用して、世界で最も汚染された都市であるインドのデリーとその周辺地域で、大気汚染物質のひとつである窒素酸化物のレベルにロックダウンが及ぼした影響を調べました。図1に研究対象とした地域の範囲と、その土地被覆、主要な工業地帯や発電所の場所などを示しています。
研究を主導した林田佐智子教授は「窒素酸化物は健康に影響があるだけでなく、寿命が短いため、大気汚染の原因を調べるための優れたトレーサーになります。窒素酸化物が風によって遠くから運ばれる可能性は低いため、周囲からの発生源の影響をよく表しているからです」と述べています。
窒素酸化物は、動的および光化学的条件によって大気中で変化します。人為的な発生源と共に自然界にも発生源があります。したがって、単純に大気中の濃度レベルを見るだけでは、人為的な活動の影響について大まかにしかわかりません。
林田教授は「COVID-19は私たちに社会実験の機会を与えてくれました。窒素酸化物濃度に対する人為的な影響を、大気の状態や自然の排出物に起因する自然的な影響から区別することができるのです。 これらの交絡因子は、大気質をコントロールするための政策に影響を与えます」と言います。
2020年の3月末から5月末までの2か月間、デリーでは厳しいロックダウンが実施されました。この期間は紫外線フラックスなどの状態が、春には低い状態から初夏には高い状態へと移行する時期と重なります。また、インド北部地域全体では、風が停滞している状態から、風通しのよい状態へと移行します。
そこで研究チームは、数年にわたる季節的および年次的な衛星データを分析して、ロックダウンがなかった場合のレベルを予測しました。彼らはまた、定常状態における連続の方程式※2を用いて、トップダウン排出量※3を推定したところ、自然現象だけでは、2020年の窒素酸化物レベルの劇的な低下を全く説明できないことがわかりました(図2に推定結果を示す)。
林田教授は「私たちの計算によると、都市部での窒素酸化物排出量の72%は、人為的活動である交通と工場のみに起因することがわかりました」と述べています。
興味深いことに、ロックダウン後、窒素酸化物排出量は都市部よりも農村部の方が早く元のレベルに戻っていました。これは、藁焼きなどの農業活動が即座に再開されたことに起因していると見られます。工業活動とは異なり、農業活動は、ペースは遅いものの、ロックダウンの間も続けられていたこともわかりましたが、これは農業活動への取り締まりが工業活動ほど厳しくなかったためと思われます。
今回新たに開発された研究手法は、大気中に放出される有害な化学物質を研究する方法に影響を与えるはずです。林田教授は「私たちの調査結果は、大気中の濃度だけでなく、トップダウンの排出量を分析することの重要性を示しています。大気汚染に関する適切な政策を導くために私たちの研究手法が生かされることを期待しています」と述べています。
※1
https://www.chikyu.ac.jp/rihn_e/covid-19/topics.html#topics6
※2
発生量と消滅量(化学的分解と輸送効果による)が等しくなるという質量保存則
※3
トップダウン排出量とは、大気中の濃度を元に推定した排出量のこと。
(排出された化学種が、空気中で化学的変化や輸送の効果を受けた結果、ある濃度で分布することになります。その濃度分布に基づいて求めたものをトップダウン排出量と呼びます。一方、工場や車などの個々の排出源からの排出量を積みあげて求めた排出量をボトムアップ排出量と呼びます。)
雑誌名:「Scientific Report」(5月7日付)
DOI番号:https://doi.org/10.1038/s41598-021-87673-2
図1: (a) 今回の調査の対象地域(東経74度、北緯27度)から(東経80度、北緯30度)の範囲。主要な土地被覆タイプは、都市部、農地、灌木地である。(b) ロックダウン政策がとられた期間(BAUは通常の活動状態を指す)。(c) 2020年2月1日から3月20日までの衛星センサーTROPOMIで得られた平均NO2カラム密度。都市部(Delhi)と農村部(Fatehabad)の代表的な場所を黒枠で示し、その他の顕著な排出源(DadriとHarduaganjの発電所、Panipatの工業地帯)を三角形で示している。なお、この図は Python 3.6 の'Cartopy' version 0.16 と 'Rasterio' version 1.2 modules を使って描かれたものである。(https://www.python.org/downloads/release/python-360/)
図2: 2020年の、ロックダウンの各期間に対応した、窒素酸化物排出フラックスの平均推定値。(a)はBAUの時期、(b)-(f)は図1に示されたロックダウンの各期間に対応。
<研究に関すること>
東北大学大学院理学研究科 附属大気海洋変動観測研究センター
講師 PRADEEP KHATRI
E-mail:pradeep.khatri.a3[at]tohoku.ac.jp
<報道に関すること>
東北大学大学院理学研究科 広報・アウトリーチ支援室
電話: 022-795-6708
E-mail:sci-pr[at]mail.sci.tohoku.ac.jp
*[at]を@に置き換えてください