● イオノフォア(注1)という特殊な有機分子は、特定の金属イオンを細胞内へ送りこむのを助けます。例えばイオノフォアの一種であるビューベリシン(以下、BEA)分子は、バリウムイオン(Ba2+)とカルシウムイオン(Ca2+)の細胞膜透過を助けることが報告されていました。
● 本研究では、なぜBEAがBa2+の透過を助けるのかを、BEAとさまざまな金属イオンとの錯体(注2)の構造を調べて明らかにしました。
● Ba2+とBEAの錯体は、BEAの持つ3つのベンゼン環がBa2+を取り囲んだ非常にコンパクトな無極性構造を持つことを世界で初めて明らかにしました。
● このような膜透過に適した構造を明らかにすることによって、金属イオンごとに細胞内へ送り込むのを助けるイオノフォアの開発に役立つことが期待されます。
生物の細胞はすべて細胞膜で仕切られています。この膜をイオンなどが通り抜けるには、イオノフォアと呼ばれる分子などの手助けが必要です。生体膜を通したイオン輸送のメカニズムの解明は生物学の中心問題の一つであり、ノーベル賞の対象となってきました。
例えば、ビューベリシン(BEA)という分子はイオノフォアの一つで、Ba2+とCa2+を選択的に輸送しますが、そのメカニズムは解明されていませんでした。
東北大学大学院理学研究科の上岡俊介大学院生、大下慶次郎助教(現 北海道教育大准教授)、美齊津 文典教授らの研究グループは、Ba2+とBEAとの錯体だけが、BEAの3つの芳香環(注3)とイオンとの間で強い相互作用をもち、安定でコンパクトな無極性構造(注4)を作ることを発見しました。この構造は膜の透過や拡散に適しており、選択的なイオン輸送の起源がこのコンパクトな構造にあると考えられます。
本研究成果は、2025年 7月16日に米国化学会発行のThe Journal of Physical Chemistry Lettersに掲載されました。
分子が特定のイオンを正確に識別する能力は、生物学・医学・薬学・工学・化学といった幅広い分野で重要な役割を果たしています。中でも、細胞膜を通じて特定のイオンだけを選択的に移動させるイオン輸送は、私たち生物の体を形づくる細胞の正常な機能維持に不可欠な現象となります。
このイオン輸送を担う有機分子のひとつとして、微生物がつくり出すイオノフォアが知られています。イオノフォアは、抗生物質やがん治療薬としての応用が期待されるほか、イオンセンサーや人工細胞の開発といった最先端技術においても重要な分子です。
これまで、さまざまな種類のイオノフォアが見つかり、それぞれがどのイオンを選択的に輸送するのかが研究されてきました。例えば、BEA(図1a)は、Ba2+ とCa2+を選んで輸送することが報告されています。しかし、どのようにして特定のイオンを識別し、細胞膜を超えて輸送するのか、その分子レベルでの詳細なメカニズムは長らく未解明のままでした。
本研究グループは、BEAとさまざまな金属イオンとの錯体を溶液中から真空中に取り出し、イオンモビリティー質量分析(注5)によりその立体構造を観測しました。その結果、Ba2+との錯体でのみ、BEAの3つのベンゼン環がBa2+を完全に包み込む、非常にコンパクトかつ無極性な構造が形成されることを発見しました(図1b)。さらに量子化学計算により、この立体構造が3つのベンゼン環とBa2+との間に生じる強い相互作用が働くことによって安定化されていることを明らかにしました。一方、他の金属イオンとの錯体では、同様の構造が安定化せず、すべてのベンゼン環が金属イオンと相互作用せずに広がった状態となってイオンがむき出しになる、かさ張った極性構造をとることがわかりました(図1c)。
このような立体構造の違いは、細胞膜を通り抜ける能力に大きく影響します。コンパクトな無極性構造は、膜を透過しやすく、イオンを効率よく輸送できます。しかし、かさ張った極性構造は、膜を透過するのが難しくなります。すなわち、BEAがBa2+を選択的に輸送できるのは、イオンを運びやすい特殊な立体構造を特異的に形成し、細胞膜を透過しやすくなるためであると解釈できます(図2)。
本研究は、BEAがBa2+を識別し、それに対してのみ輸送に最適化された錯体構造を作ることを世界で初めて発見しました。イオノフォアの構造とイオン輸送能の密接な関係を分子レベルで示したことは、これまで未解明だった多種多様なイオノフォアの輸送メカニズム解明に向けた重要な一歩となります。BEAとかさ張った極性構造を形成してしまうCa2+がなぜ細胞膜を透過できるかの要因についても現在研究を行っています。今後は、これらの知見を応用することで、新しいイオノフォア抗生物質やがん治療薬の開発が期待されます。さらに、イオノフォアの高いイオン識別能力を活かして、有害な金属イオンの除去や希少資源の回収といった環境材料への応用展開も期待されます。
図1. (a) ビューベリシン(BEA)の構造式。(b) Ba2+との錯体でのみ形成される、コンパクトな無極性構造。(c) Ba2+以外のアルカリ土類金属イオン(Mg2+、Ca2+、Sr2+)、およびアルカリ金属イオン(Li+、Na+、K+、Rb+、Cs+)との錯体で形成される、かさ張った極性構造。
図2. ビューベリシン(BEA)がBa2+を選択的に輸送するメカニズムの模式図。Ba2+に対してのみコンパクトかつ無極性な構造を形成することで、イオン輸送が効率的に行われる。
本研究は、JSPS 科研費(JP16K05641, JP21H05418)、量子化学探索研究所、ソルト・サイエンス研究財団(助成番号1916, 2022, 2116, 2420)からの助成を受けました。量子化学計算は自然科学研究機構計算科学研究センターを利用して行いました。
注1. イオノフォア:生体膜において、特定のイオンの透過性を増加させる能力を持つ有機分子。主に細菌によって生産される抗生物質である。
注2. 錯体:金属イオンに有機分子などの配位子が結合した化合物。
注3. 芳香環:ベンゼン環に代表される、電子が分子全体に広がって特有の安定性を持つ環状構造。
注4. 無極性構造:分子全体で電荷の偏りをもたない構造。
注5. イオンモビリティー質量分析:イオンの質量とともにその形状や大きさによって分離分析を行う手法。特に本研究では、真空中でのイオンとヘリウムガスとの衝突を利用してイオンの構造を決定している。
タイトル:Compact Conformation of Ba2+-Beauvericin Complex by Triple Cation-π Interactions: Insight into Ion Transport Mechanism from Gas-Phase Structures
著者:Shunsuke Kamioka, Ryosuke Ito, Keijiro Ohshimo*, Fuminori Misaizu*
*責任著者:東北大学大学院理学研究科 助教 大下慶次郎、教授 美齊津文典
掲載誌:The Journal of Physical Chemistry Letters
DOI:10.1021/acs.jpclett.5c01573
<研究に関すること>
東北大学大学院理学研究科化学専攻[web]
教授 美齊津文典(みさいづふみのり)
TEL: 022-795-6577
Email: misaizu[at]tohoku.ac.jp
<報道に関すること>
東北大学大学院理学研究科
広報・アウトリーチ支援室
TEL:022-795-6708
Email:sci-pr[at]mail.sci.tohoku.ac.jp
*[at]を@に置き換えてください