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うつ病モデルマウスで抑うつ状態からの回復に関わる脳内の転写因子を特定
脳内転写因子活性プロファイルによって明らかに
発表のポイント
● うつ病モデルマウスを用いて、脳内における様々な転写因子の遺伝子発現制御活性について評価しました。
● 抑うつ的な行動を示したマウス脳内では、Tcf/Lef1 転写因子とRest転写因子(注1)の活性が上昇し、それらによって制御されうる遺伝子の発現が変化することを発見しました。
● 薬剤によってこれら転写因子の転写活性を亢進すると、慢性ストレスにより生じた抑うつ的な行動が改善することが見出されました。
● この成果は、転写因子活性を指標にした病理理解と、新規抗うつ薬の開発に貢献することが期待されます。
概要
うつ病は世界的に深刻な精神疾患であり、その発症メカニズムや治療薬の作用機序には未解明な部分が多く残されています。現在、セロトニン仮説(注2)に基づいて開発された抗うつ薬は治療法として効果を挙げていますが、効果の発現に時間がかかることや、薬剤による効果の個人差が大きいことが課題です。
東北大学大学院生命科学研究科の山本創大学院生(研究当時)、安部健太郎教授らは、マウスの脳内の神経細胞が内在に発現する多数の転写因子の活性を測定する独自開発技術「転写因子活性プロファイル法」(注3)を確立しています。この技術でうつ病モデルとして知られる慢性社会的敗北ストレスモデルのマウスを解析し、抑うつ状態に関連して活性変化を示す転写因子を探索しました。その結果、転写因子群Tcf/Lef1またはRestの活性上昇が観察され、これら転写因子を薬剤で活性化すると抑うつ状態の改善が促進されることから、これらが抑うつ状態からの回復に寄与することが明らかになりました。
本研究は、うつ病病理と抗うつ薬の作用に関する新たなメカニズムを示唆するものであり、今後の抗うつ薬開発に新たな視点を与えるものです。
本研究成果は10月7日に米国神経精神薬理学会が発行する学術誌、Neuropsychopharmacology (電子版)で公開されました。
詳細な説明
研究の背景
うつ病は、気分の落ち込みや意欲の低下、社会的機能の低下などを長期にわたって引き起こす疾患であり、慢性的な脳の機能障害と考えられています。うつ病の治療法として、シナプスでのセロトニン量を増加させる効果のある選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)の使用が一定の効果を挙げています。しかし、症状の改善にかかるまでの期間が長いことや、治療効果に個人差があることから、その作用機構に関しても議論が定まっていない状況にあり、より効率的な治療法の確立に向けた研究が進められています。
ヒトのうつ病患者や、マウスうつ病モデルのトランスクリプトーム解析より、抑うつ状態の脳では多数の遺伝子の発現が変化していることはこれまでに報告されていましたが、どのような分子機構によりそのような遺伝子発現変化が引き起こされているのかは不明でした。生体内で遺伝子の発現を直接的に制御するのは転写因子と呼ばれるゲノムDNAに結合する分子群です。転写因子は数百種類以上存在し、細胞の状態や外部刺激に応じて活性が変動し、標的遺伝子の発現を調節します。しかし、動物の成体の脳で複数の転写因子の活性を同時に網羅的に評価する技術は、これまで限られていました。安部健太郎教授らの研究グループは、マウスなどの実験動物の脳内において転写因子活性を測定し、多数の転写因子の活性をプロファイルとして図示する「脳内転写因子活性プロファイル法」を以前に確立しています(Abe and Abe, iScience 2022)。本手法により、脳疾患や生活習慣、薬物投与に伴う転写因子活性の包括的な変化を明らかにすることが可能となっています。
今回の取り組み
今回、東北大学大学院生命科学研究科の山本創(やまもと はじめ)大学院生(研究当時)、荒城里美(あらき さとみ)大学院生(研究当時)、小野寺 諒馬(おのでら りょうま)大学院生、郷 康広(ごう やすひろ)兵庫県立大学教授、安部健太郎(あべ けんたろう)教授(高等研究機構・言語AI研究センター・総合知インフォマティクスセンター兼任)らのグループは、慢性的な抑うつ状態の脳では転写因子の活性異常が見られるのではないかという発想に基づき、独自開発した「脳内転写因子活性プロファイル法」を用いて、抑うつ状態にある動物の脳内で活性変化を示す転写因子を探索しました。うつ病の代表的な動物モデルである慢性的社会敗北ストレスモデルマウスにおいて、30種類の候補転写因子と、トランスクリプトーム解析を組み合わせたマルチオミクス解析を実施し、候補の中で、転写因子群Tcf/Lef1 およびRestの遺伝子制御活性が、抑うつ状態のマウスの脳内で上昇していることを明らかにしました。
さらに、躁うつ病の治療薬として使用される炭酸リチウムや、SSRIの1つであるセルトラリンが、マウス脳内における転写因子群Tcf/Lef1またはRestの活性をそれぞれ上昇させ、これら薬剤の投与によりストレス後の抑うつ行動が改善されることを観察しました。また、個体レベルおよび単一細胞レベルにおいてもTcf/Lef1およびRest転写因子の活性変化の程度に違いがあること、薬剤によってマウス脳においてTcf/Lef1を活性させた際と、Restを活性化させた際には異なる遺伝子発現パターンが引き起こされることを明らかにし、Tcf/Lef1活性化 による抑うつ状態からの回復効果とRest活性化による効果は別の機構で引き起こされることを示唆しました。
今後の展開
本研究では、マウスモデルではあるものの、うつ病病理に複数の分子機構が関わることを明らかにするとともに、抗うつ薬の作用が従来想定されていた分子機構以外の経路で遺伝子発現状態変化を引き起こすことを示唆しました。ヒトのうつ病患者において、抗うつ薬の効き方には個人差があること、また、1つの薬剤で治療効果が見られない際に、他の抗うつ薬に変更することや、リチウムのような他の薬剤と複合投与する薬剤スイッチングや併用療法がとられることがあります。本研究が明らかにした分子機構はそのような病態の個人差や、複合的な治療薬による治療効果の理解に貢献する可能性があります。今回明らかにした、Tcf/Lef1およびRest転写因子を標的とした創薬開発を進めるとともに、より複雑かつ包括的な転写因子を含む分子ネットワークを詳細に解明することで、うつ病における個人差の理解や新たな治療標的の発見、さらには転写因子活性を利用した薬剤スクリーニング手法の開発につながると期待されます。

図1. 本研究のイメージ
本研究では慢性的な抑うつ状態のマウスの脳内転写因子活性をプロファイリングし、活性変化を見せる転写因子を同定しました。それらの転写因子の活性がストレス後の回復過程に関わることを明らかにしました。

図2. 本研究の成果の概要
本研究では生体脳内における転写因子の転写活性および遺伝子発現プロファイルを評価し、抑うつ状態から回復する過程において転写因子群Tcf/Lef1およびRestの活性および下流遺伝子の発現が変動していることを明らかにしました (図上)。また、リチウムおよびセルトラリンがこれら転写因子の活性を亢進させ、抑うつ状態からの回復を促進することを明らかにしました (図下)。
謝辞
本研究は科研費JP25H01037(基盤研究A)、JP24H01218(学術変革領域研究(A))、 JP22H05482(学術変革領域研究A)、 JP22H04925-PAGS(先進ゲノム支援)、 JP21H05608(学術変革領域研究A)、 JP19H04893(新学術領域研究)、 JP19H03319 (基盤研究B)、JP16KT0067(基盤研究B)、 JP21H05238(学術変革領域研究A)、 JP21H05245(学術変革領域研究A)、P24KJ0393(特別研究員奨励費)、JPMJSP2114(JST SPRING)、東北大学研究プログラム 挑戦研究デュオ Frontier Research in Duo (FRiD)、JP21gm6110011(AMED-PRIME)の支援を受けて行われました。掲載論文は『東北大学2025年度オープンアクセス推進のためのAPC支援事業』の支援を受けOpen Accessとなっています。
用語説明
注1. 転写因子:転写因子はゲノムDNA上の特定の塩基配列に結合し、その遺伝子の転写を上昇または減少させる"遺伝子発現のスイッチ"とも呼べる制御因子です。転写因子はゲノム中に数百種類存在し、様々な細胞で多様な役割を果たしていることが知られています。Tcf/Lef1転写因子は、個体発生時の細胞の運命決定や、がん細胞・幹細胞などの増殖促進などの役割が知られ、Rest転写因子も発生時の神経分化や、神経疾患との関連が知られています。
注2. セロトニン仮説:うつ病の発症を説明する仮説の一つで、脳内の神経伝達物質セロトニンの働きが低下することが症状に関わるとする考え方です。モノアミン仮説の中でも特にセロトニンに焦点を当てたもので、抗うつ薬SSRIの開発につながりました。セロトニン仮説はうつ病研究や治療の重要な理論的基盤となっていますが、実際の効果には個人差や時間遅延があるため、セロトニン以外の分子機構も関与することが近年指摘されています。
注3. 脳内転写因子活性プロファイル法:ウイルスベクターを用いて脳内の細胞が内在的に発現する転写因子の遺伝子発現制御活性を直接計測する手法(Abe and Abe iScience 2022)。標的の転写因子のDNA結合配列をもつように合成した人工プロモーターによってレポーター遺伝子を発現させ、その発現量の比較より活性の測定を行う。多数の転写因子の活性を測定し統合した情報を転写因子活性プロファイルと呼び、オミクス情報として捉えられる。
論文情報
タイトル:Transcription factors Lef1 and Rest stimulate recovery from depressive states
著 者:Hajime Yamamoto, Satomi Araki, Ryoma Onodera, Yasuhiro Go, Kentaro Abe*
*責任著者:東北大学大学院生命科学研究科 脳機能発達分野 教授 安部健太郎
雑誌名:Neuropsychopharmacology
DOI:10.1038/s41386-025-02259-0
問い合わせ先
<研究に関すること>
東北大学大学院生命科学研究科 兼担 理学部生物学科[web]
教授 安部 健太郎
TEL: 022-217-6228
Email: k.abe[at]tohoku.ac.jp
<報道に関すること>
東北大学大学院生命科学研究科広報室
高橋 さやか(たかはし さやか)
TEL:022-217-6193
Email:lifsci-pr[at]grp.tohoku.ac.jp
*[at]を@に置き換えてください
Posted on:2025年10月10日