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電子と結晶の「ささやき」を聞く
―テラヘルツ光で解き明かす新しいミクロの世界―

発表のポイント

● 結晶の中で電子と格子の振動(フォノン(注1))がエネルギーをやり取りする電子格子相互作用の強さが離散的で量子化されているという現象について、多くの材料でも観測されることを見出しました。

● 電子格子相互作用の強さは、材料や電子のエネルギーに関係なく、物理学で有名な微細構造定数(約1/137)(注2)に比例します。

● 電子格子相互作用の強さが微細構造定数に比例する原因を、フォノンが放出する光と電子の衝突で説明しました。

□ 東北大学ウェブサイト



概要

私たちの身の回りにある結晶の中では、電子と格子の振動(フォノン)が絶えずやり取りをしています。このやり取りを電子格子相互作用と呼びます。これまで、電子相互作用の強さである線形温度係数の正確な値や物理的解釈については議論されてきませんでした。

東北大学大学院理学研究科物理学専攻の高橋まさえ特任研究員は、テラヘルツ(注3)分光を用いて、電子相互作用の強さを水素結合ネットワーク結晶(有機結晶)について正確に測定することに成功しました。測定の結果、その強さは微細構造定数αに比例していることが明らかになりました。微細構造定数α(約1/137)は、電磁気力の強さを示す基本定数で、量子ホール効果(注4)、原子微細構造(注5)など、さまざまな現象に登場します。これは、電磁気力を表す基本定数が、電子とフォノンの相互作用にも適用できることを示す発見です。

本成果は結晶の性質を解明するだけでなく、性能を左右する電子格子相互作用の強さが示す電子格子間のエネルギー授受が、微細構造定数とフォノンのエネルギーで定量的に決まるという結果を示すものです。本成果は次世代の電子材料や量子技術の開発にもつながる可能性があります。

本研究の成果は、2025年11月19日に科学誌Chemical Physics Impactに掲載されました。



詳細な説明

研究の背景

私たちの身の回りにある結晶の中では、電子と格子の振動(フォノン)が絶えずやり取りをしており、このやり取りを電子格子相互作用と呼びます。電子格子相互作用の量子力学的側面については、結晶で起こる光吸収の変化に着目して研究がなされてきました。

原子や分子に光を照射すると、特定の波長の光を吸収しエネルギーの高い励起状態となります。波長ごとの吸収率は光吸収スペクトルとして表されます。精密機器の回路などに使われている半導体結晶では、結晶中の荷電粒子(電子)と格子振動(フォノン)との間の電子格子相互作用のために、温度が変化すると光吸収スペクトルでピーク値をとる波長が変化することが知られていました。この温度に依存したピークシフトは結晶の熱膨張によっても生じるため、電子格子相互作用の量子力学的側面の詳細な研究にはすぐには発展しませんでした。

しかし近年、テラヘルツ技術(注6)の進歩により、赤外線とマイクロ波の間の領域(テラヘルツ領域)における、温度変化による光吸収の変化に関する研究の報告が急激に増加してきました。2003年、Shenらは熱膨張がピークシフトに与える影響が非常に小さい水素結合ネットワーク結晶(有機結晶)において、温度変化によってテラヘルツ領域の振動数で起こるピークシフトがどのように起こるのか、量子力学の観点から説明を与えました。この説明では、ピークシフトをもたらす電子格子相互作用の強さはピークごとに異なるパラメータとして導入されていました。

2022年、高橋特任研究員らの研究グループは、この水素結合ネットワーク結晶において観測される電子格子相互作用について、Shenらが導入した電子格子相互作用の強さとしてのパラメータに着目しました。1~3 THzの低い振動数領域に鋭いピークを多数持つ水素結合ネットワーク結晶を作製し測定解析した結果、電子格子相互作用の強さを記述する線形温度係数が離散的で量子化されていることが判明し、さらに同じ結晶であれば多フォノン散乱(注7)過程とポーラーカップリング過程(注8)の両方で全く同じ値を示すことを見出しました。また結晶中の格子振動の寿命に対して電子の励起振動状態の寿命が十分に長いために多フォノン散乱が生じていることを明らかにしました。線形温度係数が異なる遷移間で類似していることはこれまでもすでに報告されていましたが、その正確な値や物理的解釈については議論されていませんでした。


今回の取り組み

今回の研究では、研究グループは以前の結晶とは別の水素結合ネットワーク結晶(ニコチンアミド)について電子格子相互作用の強さを、温度依存テラヘルツスペクトルを解析することにより調べました。また、すでに報告されている水素結合ネットワーク結晶の温度依存テラヘルツ分光研究とも比較することにより、温度依存のピークシフトから求まる電子格子相互作用の強さは、材料や振動遷移によらず、単位となる値の整数倍になることを見出しました(図1)。

単位となる値は、解析方法の違いにより多少の系統的差異はあるものの、測定精度を加味すると5×10-3 cm-1 K-1と算定され、これはボルツマン定数kB(0.695 cm-1 K-1)を137で割った値になります。すなわち、無次元の微細構造定数α(約1/137)にボルツマン定数(注9)を掛けた値ということです。これは、フォノンが運ぶ平均エネルギーの約1/137(またはα)が、1回の電子格子相互作用中に電子との間で授受されることを意味し、αという基本的指標が電子格子相互作用にも適用できることを示唆しています。

ここで大きな問題は、今回の電子格子相互作用において観測されるエネルギー授受がなぜαの1乗に比例するのかという点です。微細構造定数は同じ次元を持つ物理定数の間の一定の単位に対する比例係数で、アルノルト・ゾンマーフェルト(注10)が水素スペクトル線の分裂の大きさを表すために導入しました。物理定数が長さの場合はαの1乗に、エネルギーの場合はαの2乗に比例しています。電子格子相互作用はエネルギーであり、αの2乗に比例すると予想されます。よく知られた例としては、ポール・ディラック(注11)の電子の相対論的理論によってスピン軌道相互作用で説明された相互作用エネルギーは、αの2乗に比例しています。

高橋特任研究員は波長シフトがαの1乗に比例するコンプトン散乱(注12)のような電子と光の衝突を考え(図2)、今回の電子格子相互作用によるαの1乗に比例するエネルギー授受を解明することに成功しました。

水素結合ネットワーク結晶における電子は、コンプトン散乱とは異なり、金属結晶中の自由電子ではなく、伝導帯に電子を持たない有機結晶の振動励起状態で振動している電子基底状態にある電子です。

温度依存テラヘルツスペクトルの解析に使用される振動吸収分光法において、入射光のエネルギーは、電子励起に必要なエネルギーよりもはるかに小さいため、振動励起状態の電子は通常、電子基底状態、すなわちブリルアンゾーン(注13)の価電子帯に留まっています。また微細構造定数に比例するエネルギー移動を導出するためには、電子と衝突する相手は光速で伝搬する必要があります。

そこで高橋特任研究員は電子がフォノンと直接衝突するのではなく、電子がフォノンから放出される光と衝突するという描像を提案しました。室温程度の熱を帯び熱振動している有機物から遠赤外光が放出するように、遠赤外領域の一部であるテラヘルツ領域にある有機物中のフォノン(格子振動)が光を放出する可能性は十分考えられます。この光は、電磁力の中継役を担う必ずしも光速で伝搬するわけではない仮想光子ではなく、光速で伝搬する実光子である必要があります。


今後の展開

この発見は、結晶の性質を理解するだけでなく、次世代の電子材料や量子技術の開発にもつながる可能性があります。スマートフォンやコンピューターの性能を左右する電子格子相互作用を、初めて定量的に解き明かしたものです。さらに、テラヘルツ波は生命科学にも関係します。テラヘルツ光を照射すると細胞分裂を阻害する可能性があることが複数の研究で報告されており、今回の成果は、生命現象の研究にも新しい視点を提供します。


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図1. 様々な材料と遷移に対してプロットされた電子格子相互作用強度。


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図2. 振動励起状態にある結晶内電子と光の衝突。meは電子の質量、V、V'は衝突前後の電子の速度、hはプランク定数、νp、ν'pは衝突前後の光の振動数、cは光の速度。



用語説明

注1. フォノン:結晶中の振動を量子化した準粒子。
注2. 微細構造定数(約1/137):低エネルギー極限での電磁相互作用の強さを表す無次元の基礎物理定数。
注3. テラヘルツ:1×1012ヘルツ。
注4. 量子ホール効果:低温、強磁場下の二次元電子系という極限条件で、ホール抵抗が量子化される現象。量子ホール効果の発見者Klaus von Klitzingは1985年にノーベル物理学賞受賞。
注5. 原子微細構造:原子のスペクトル線にあらわれる、スピン軌道相互作用によって説明される微細な分裂(原子物理学)。
注6. テラヘルツ技術:テラヘルツ光(0.1~10 THz)の発生光源およびその検出器の開発等テラヘルツ光に関連する技術。マイクロ波と赤外の中間の振動数をもつテラヘルツ光は、光工学的には振動数が低く、電子工学的には振動数が高いため、長い間その光源と検出器の開発が立ち遅れていた。テラヘルツ技術は、テラヘルツ光の特性を活かした高速無線通信、非破壊検査、医療・生体イメージング、セキュリティ検査、分光分析、環境計測など、幅広い分野で応用が期待されている。
注7. 多フォノン散乱:振動吸収スペクトルで検出される電子格子相互作用において、振動励起状態にある電子が、複数のフォノンと相互作用しエネルギーを失う現象のこと。
注8. ポーラーカップリング過程:振動吸収スペクトルで検出される電子格子相互作用において、格子振動により結晶内に生じた電荷の偏りが作る電場と、振動励起状態にある電子が相互作用する過程のこと。
注9. ボルツマン定数:統計力学の分野において重要な貢献をしたオーストリアの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンにちなんで名付けられた統計力学で使われる物理定数。エネルギーを温度で割った単位を持ち、物質の温度とエネルギーを関連づける。
注10. アルノルト・ゾンマーフェルト:ドイツの物理学者。原子物理学や量子力学の開拓的研究を行い、微細構造定数 、軌道磁気量子数、スピン量子数を導入した。
注11. ポール・ディラック:イギリスの理論物理学者で、量子力学と量子電磁気学の分野に多大な貢献をした。相対論的量子力学の確立者として知られ、1933年にノーベル物理学賞を受賞した。
注12. コンプトン散乱:X線やガンマ線が物質中の電子と衝突し、エネルギーの一部を失って散乱される現象。
注13. ブリルアンゾーン:結晶内の1個の電子の量子状態を指定する運動量空間における基本領域。固体物理学では電子のエネルギー帯を考える上で重要な概念。



論文情報

タイトル:Electron-phonon coupling strength in hydrogen-bonded network crystals in the THz frequency range
著者:Masae Takahashi
*責任著者:東北大学大学院理学研究科 特任研究員 髙橋まさえ
掲載誌:Chem. Phys. Impact
DOI:10.1016/j.chphi.2025.100977



問い合わせ先

<研究に関すること>
東北大学大学院理学研究科物理学専攻[web]
特任研究員 高橋 まさえ(たかはし まさえ)
Email:masae.takahashi.d1[at]tohoku.ac.jp

<報道に関すること>
東北大学大学院理学研究科 広報・アウトリーチ支援室
TEL:022-795-6708
Email:sci-pr[at]mail.sci.tohoku.ac.jp
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