お知らせ

忘れる記憶、残る記憶。その違いを解明 ―麻酔や脳震盪で起こる「部分的な記憶喪失」の仕組み―

発表のポイント

● 麻酔や脳震盪によって記憶が部分的に失われることが知られていますが、このとき「忘れる記憶」と「残る記憶」の違いが生まれる仕組みを解明しました。

● 神経細胞同士をつなぐシナプス内で起こる小さな構造の変化が、記憶の残りやすさを左右することを発見しました。

● 遺伝子操作によりシナプス構造を人為的に変化させ、麻酔や脳震盪への耐性を高めることで、記憶を安定化させることに成功しました。

□ 東北大学ウェブサイト



概要

麻酔を受けた時や脳震盪を起こした時、直前の記憶が部分的に失われることがあります。この現象は逆行性健忘(注1)と呼ばれ、約200年前から研究されてきましたが、記憶の一部だけが失われる仕組みは分かっていませんでした。

東北大学大学院生命科学研究科の谷本拓教授と平松駿研究員らの研究グループは、ショウジョウバエの匂い記憶を逆行性健忘のモデルとして、記憶が部分的に消失する神経細胞内のメカニズムを解析しました。

記憶の形成には、神経細胞同士をつなぐシナプス(注2)の構造変化が深く関わっています。シナプスの中には、小胞と呼ばれる神経伝達物質を包む微小構造が多数存在し、それらは機能に応じて複数の小胞プール(注3)に分かれています。この微小構造を高精度に可視化する顕微鏡を用いて、麻酔や脳震盪により逆行性健忘を誘導させた個体では、特定の小胞プールが選択的に減少することを発見しました。一方で、その影響を受けない記憶の維持には、別の異なる機能を持つ小胞プールが関与していることが分かりました。

さらに遺伝子操作によって、これら機能の異なる小胞プールの比率を人為的に変化させることで、麻酔や脳震盪の影響を受けにくい、より安定した記憶をもつハエを作り出すことに成功しました。このことから、シナプス内の微小構造レベルで「忘れる記憶」と「残る記憶」が区別されることが明らかになりました。

本成果は2026年3月5日付で米国科学アカデミー紀要に掲載されました。



詳細な説明

研究の背景

学習によって形成される記憶は完全に固定されたものではなく、その一部は麻酔や脳震盪といった脳への摂動によって失われることがあります。このような現象は「逆行性健忘」と呼ばれ、約200年も前から研究されてきましたが、記憶の消失がなぜ部分的なのかは分かっていませんでした。このとき、脳内では一体何が起こっているのでしょうか?忘れる記憶と残る記憶は、何が違うのでしょうか?

記憶は、神経細胞間のシナプスにおける情報伝達の変化によって支えられています。特にシナプス小胞は、神経伝達物質を放出する役割を担う微小構造であり、その内部には機能の異なる働きをもつ複数の「小胞プール」が存在しています。しかし、記憶の形成や消失において、これらがどのような役割を果たしているのかは十分に理解されていません。



今回の取り組み

東北大学大学院生命科学研究科の谷本教授らが指揮する研究チームは、遺伝学的操作が容易なモデル動物であるショウジョウバエを用いて、記憶の消失がシナプス前終末におけるどのような変化と対応しているのかを解析しました。

ショウジョウバエは、匂いなどの感覚情報と電気ショックなどの罰情報を結びつけ、その関係性を学習することができます。この二つを同時に提示されたハエは匂い記憶を形成し、学習した匂いを避けるようになります。学習後に匂いのみを提示した時に、匂い記憶を持つハエがどの程度その匂いを忌避するかを測定し、学習スコアを算出することで記憶を定量することができます。

研究チームは、低温麻酔や化学麻酔、脳震盪といった外的要因によって、この匂い記憶における逆行性健忘を誘導し、それらに共通する小胞プールへの影響を解析しました。神経細胞のシナプス内の微小構造を高精度に可視化する顕微鏡を用いて、特定の小胞プールに局在する分子シナプシン(注4)を観察したところ、神経伝達物質を蓄える「貯蔵プール」が麻酔等によって失われることを発見しました(図1)。一方で、神経伝達物質をすぐ放出できる状態にある「即時放出可能プール」は影響を受けず、貯蔵プールのみが選択的に影響されることが分かりました。

また、小胞プールを制御する遺伝子を操作したうえで、学習行動がどのように変化するのかを解析しました。貯蔵プールの維持と小胞の供給制御に関わるシナプシン遺伝子の働きを抑制した結果、学習スコアの部分的な低下が見られました。麻酔等の処理をしていないにも関わらず、あたかも逆行性健忘であるかのような行動が観察されたのです。さらに、Rab3と呼ばれる遺伝子の活性状態を人為的に操作し、貯蔵プールと即時放出可能プールの比率を変化させることで、麻酔耐性の高い記憶を持つハエを作成することに成功しました。

以上の結果から、逆行性健忘は貯蔵プールを介して引き起こされ、安定性の高い記憶は放出可能プールによって維持されることが示唆されました。


今後の展開

本研究は、記憶の安定性がシナプス内の小胞プールという微小構造レベルの機能によって制御されるという新たなモデルを提唱しました。

小胞プールを制御する仕組みは、ショウジョウバエからヒトまで広く共通しています。そのため、本研究で実証した小胞プールの操作による記憶の安定化は、記憶障害を伴う疾患の新たな治療戦略の基盤となることが期待されます。


20260313_00.jpg

図1. 麻酔や脳外傷によってシナプスで起こる変化。貯蔵プールを構成する分子シナプシンを蛍光標識した。操作により、シナプシンの量が減少した。



謝辞

本研究は、文部科学省・日本学術振興会 科学研究費補助金(JP25H00986, JP24H01217, JP22H04829, JP22H05481, JP22KK0106)、国立研究開発法人科学技術振興機構 次世代研究者挑戦的研究プログラム(JPMJSP2114)、東北大学 新領域創成のための挑戦研究デュオ(FRiD)、東北大学2025年度オープンアクセス推進のためのAPC支援事業の支援を受けて行われました。



用語説明

注1. 逆行性健忘:麻酔や脳の外傷などが原因で生じる記憶障害。その原因が起きた時点よりも前の記憶を思い出すことができなくなる。
注2. シナプス:神経細胞間の情報伝達を担う接続部位。特に化学シナプスでは、シナプス小胞内の神経伝達物質を正確なタイミングで放出することで接続する細胞と交信する。
注3. 小胞プール:神経伝達物質を内包するシナプス小胞の集合。単一のシナプス内に機能の異なる小胞プールが混在する。
注4. シナプシン:貯蔵プールのシナプス小胞に局在するタンパク質。貯蔵プールの維持を担う。



論文情報

タイトル:Disruption of a Selective Vesicle Pool upon Retrograde Amnesia Dissociates Memory at Presynaptic Terminals
著者:Shun Hiramatsu*, Kaito Kabetani, Shu Kondo, Hiromu Tanimoto*
*責任著者:東北大学大学院生命科学研究科 教授 谷本 拓、同 学術研究員 平松 駿 (現: ジョンスホプキンス大学 研究員)
掲載誌:Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America (PNAS)
DOI:10.1073/pnas.2514875123



問い合わせ先

<研究に関すること>
東北大学大学院生命科学研究科、兼担 理学部生物学科[web
教授 谷本 拓(たにもと ひろむ)
TEL: 022-217-6223
Email: hiromut[at]m.tohoku.ac.jp

<報道に関すること>
東北大学大学院生命科学研究科広報室
高橋 さやか(たかはし さやか)
TEL:022-217-6193
Email:lifsci-pr[at]grp.tohoku.ac.jp
*[at]を@に置き換えてください



東北大学 理学研究科・理学部